遠の音
遠くに落ちる音を、聞いて紡ぐ
長い長い、夢を見た気がする。ひどく騒がしく、乱雑で無秩序な「世界」。彼が知る「別の世界」ともまた違う、特別を秘めた場所。
ああ、と落胆ともつかない吐息を洩らして彼は目を伏せ、気怠げに腕を持ち上げた。
帰ってきてしまった。結局。二度と戻らずにすむと信じる事もできた、あの場所ではない。ここは、彼の知る「世界」だ。
「兄者!」
出入りをするなと命じたはずの、甲高い声が耳に障る。止めろと命じたのに役立たずにも素通りさせた馬鹿は、いい加減に処断してもいいだろうか。
半ば本気で考えながら目を伏せていると、兄者と叫びながら騒がしい存在が入り込んでくる。転びそうな勢いで駆け寄ってきて、まんまと躓き、彼の腕にぶつかるようにして止まった。
「ご、ごめんなさい、兄者……」
どこかぶつけたのだろう、鼻を押さえているようなくぐもった声で謝られるが、顔を向ける気にもならない。持ち上げた腕で目を覆うようにしたまま動かずにいると、兄者? と恐る恐る声をかけられる。
「兄者……、兄者、起きてる? っ、死んでないよね!?」
違うよねと必死に腕に縋られ、堪え切れない深い溜め息をついた。
「ここには来るな、と言ったはずですけどねぇ……?」
「っ、よかった、兄者、生きてた……!」
よかったと繰り返して自分が縋る彼の腕に額を寄せ、ほっと息を吐かれるのが嫌で、腕を振り払って肘置きに突き直す。よろけるように後退ったその小さいつばくろは、少しだけ傷ついた様子を見せたが今度は彼の腕ではなく肘置きに縋って覗き込んできた。
「ちゃんといるよね、ここにいるよね、兄者」
「さっきから気の悪い……、そんなに僕を殺したいんですか、お前」
何なら受けて立ちますよー? と語尾を上げると、必死で違うと頭を振られた。
「違うよ、僕が兄者を殺したいわけが、……そんなはず……!」
ふえ、と今にも泣きそうに否定する小さい存在に溜め息をつき、腕で顔を隠したまま尚顔を背けた。
「僕は眠いんですよお、帰りなさい」
「ご、めんなさい。……でもあの、兄者、どこにいも行かない、……よね?」
ね、と繰り返し確認されるそれが煩わしくて、闇を手繰る。突き飛ばすように彼の側から押しやり、溜め息を重ねる。
「僕がここより他に、どこに行けるって言うんです? ……自由なんて、僕にはないんですよお」
あそこには、あったのに。逃げる事もできた、何もかもから解放され、死ぬ事さえできたのに。
生温い闇がやんわりと首を締めるようなこの空間では、彼には呼吸をする自由さえ与えられない。
「、兄者……」
「何をしに来たんですか、鬱陶しい。僕はお前にここに来る事を許した覚えはないんですけどねぇ?」
刺々しい声で吐き捨てると、闇に阻まれながら少しでも近づきたいとばかりに身を乗り出している弟と呼ばれるはずの存在は、だってと声を震わせる。
「夢を……見たんだ」
夢を見た。彼も、夢を見た。久し振りに肺の奥まで空気を吸い込めるほど、息をする事のできる夢。
「僕が……、兄者を」
声と、拳が震える。夢であろうと恐ろしい、思い出すのさえ厭わしい。そんな夢を、見たのだと言う。
「兄者、ちゃんといるよね? ここにいるよね? 死んでないよね? 僕の側に、いてくれるよね!?」
必死に縋られるそれに、彼は腕の下で目を開けた。とろりとした闇が、重く彼に圧し掛かってくるような気がして。
ほう、と、小さく息を吐いた。
「夢なんて子供じみた戯言に踊らされて、よほど暇なんでしょうねぇ」
それともそれはお前の願望ですかと声に棘を潜ませ、慌てて否定される前に溜め息を重ねて遮る。
「僕は、馬鹿な動物は大っ嫌いですよお。……殺したくなる前に自分の領域に帰りなさい、燕」
敢えて呼んだ名前に、小さな黒はぱっと目を輝かせた。闇に阻まれた距離に相変わらず身を乗り出させながら、うん! と勢いよく頷く。
「夢なんて嘘だよね、だって兄者はここにいるもん! ごめんなさい、ちゃんと帰るね」
眠いのに邪魔してごめんなさいと闇の向こうで頭を下げたつばくろは、嬉しそうに笑って来た時同様また騒々しく出ていった。
闇の中でそれを聞きながら、彼はもう何度とない溜め息をまた溢す。
「鬱陶しい……」
ぽつりと呟く、それは本音だ。一心に向けてくる好意に吐きそうで、心から来訪を禁じているのがどうして分からないのだろう。どうして、彼の望む夢にあんなにも怯えると、わざわざ見せつけにくるのだろう……。
何もかも思い通りになるくせに、何一つ叶えてくれない自分の領域を細い目をまだ細めて見回す。衝動的にこみ上げてきた笑いを止められず、闇に哄笑を響かせながら彼の為だけの玉座で身体を折る。
死ねない、壊れられない。狂う事さえ、許されない……?
「何を、今更」
最初から彼は狂っている。世界を壊すなんて決断は、きっと狂人にしか許されない。それなら彼は世界が始まる最初から、狂っていたのだ。
くつくつと、喉の奥でずっと笑いながら彼は天井を仰いだ。青も白も藍も灰も何も見えない、紅も紫も濃紺もない。無感動にただ彼を表す漆黒だけを見据え、口許だけを歪めるようにして笑う。
「俺が俺に優しくあるはずがない……、ならこれは永劫続く苦痛なんだろうさ」
彼を心配する振りをして壊れる事を許さない監視人が傍らにある以上、焦がれるほど自由に息ができた世界はただの夢。今の彼には、程遠い。
漆黒が謐として湛えられた場所に、他の色の混じる余地もなく。
世界はもう、銀色の夢を見ない。