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遠の音

遠くに落ちる音を、聞いて紡ぐ

2024.05.17
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2008.06.23
 燕は昔から、兄のことが大好きだった。例えばあまり優しくなくても、例えば時にすごく意地悪でも、それでも燕にとって兄はどこまでも「偉大」だった。面倒そうにしながらも色んなことを教えてくれるのは兄だし、燕が困っていると渋々でも手を差し伸べてくれるのもやっぱり兄だった。
 だから燕にとって兄の存在は絶対で、絶大で、逆らってはいけない唯一だった。
「兄者、兄者!」
 今日もものすごい大発見を知らせるべく大声を上げて呼びかけながら兄のいる部屋へ飛び込むと、スリッパが飛んできて燕の額を直撃した。

「煩いですよ、燕。僕が読書をしているようには見えないんですか」
 鬱陶しいと続けて吐き捨てる声は、普段と変わらない。先ほど燕に側に寄るなと言いつけたのは兄なのだから、読書をしているかどうかも知らなかったわけだが、そんなことを言うと怒られるので燕は素直にごめんなさいと口にする。
 兄は本から一度も目を上げることはなく横柄に頷き、そのまままた燕から意識を逸らしてしまうのが分かった。邪魔をされたくないのは分かるのだが、どうしても気になることがあってうずうずとそこに立ち尽くしていると兄の機嫌が軽く傾くのに気づく。
「鬱陶しい、と言いましたよ、僕は。読書の邪魔です」
「ごめんなさい、でも、あの、」
「燕。僕は馬鹿で鬱陶しい動物が大嫌いです」
 お前は僕に嫌われたいんですかと声を尖らされ、思わず目一杯力一杯頭を振る。そのまま両手で口を塞ぐと、見なくとも気配で悟るのだろう兄はふんと息を吐いてまた読書に戻る。
(どうしよう、兄者に嫌われちゃう……)
 それは嫌だけれど、大変嫌なのだけれど、それでもものすごく気になることは依然としてそこに存在している。どうしたらいいんだろうとおろおろしたまま立ち去ることもできずにいると、兄の苛立ちがまた深まった。
 ごめんなさいと頭を抱えて謝罪するより早く、何なんですかと兄の尖った声が投げつけられる。
「言いたいことがあるならさっさと言いなさい、そんなとこで突っ立ってられても迷惑なんですよ」
「あの! 空。空に何かあるんだよ、兄者!」
 話すなら今しかないと急いで告げると、兄は小さく溜め息交じりに答えてくれる。
「空気中の水分が凝結して水滴・氷晶となり、それらが群れ集まって空中を浮遊してるんですよ。雲です、雲」
「あの、違うの、白くないの! 雲じゃなくて、色が、」
 もどかしく説明しかけると、兄はまた一つ溜め息をついて続ける。
「太陽光線が大気中を通過する距離が日中よりも長くなるから青色光は散乱され、波長の長い赤色光だけが地上に到達するために起こる現象です。夕焼けですよ」
「えっと、そうじゃなくて。丸いの。色が一杯あって、それで」
「色が一杯?」
 何をふざけたことを言っているんだとばかり、ようやく兄の目が燕に向けられる。眼鏡の奥の細すぎる目を嫌そうに尚更細め、今にも馬鹿ですかお前はと軽蔑しそうな雰囲気がある。それでもどうしても兄にも見せたくてこの部屋の窓から外を指差し、綺麗だよと泣きそうに続けるとようやく兄の目もそちらに向けられた。
「……ああ。虹ですか。もう消えかかってますけど」
「え!? 消えちゃうの!?」
「消えますよ、虹なんですから。空中の水滴粒子に光が当たって、それの屈折と分光によって生じる現象です。空中の水滴竜子が失われたら消えるに決まってます」
 もういいだろうとばかりに手にしていた本に目を戻しながら解説した兄の横を通って窓から身を乗り出させ、兄の言葉通りに消えかかっている空に架かった複数色の橋を見つけてへにゃりと泣きそうになる。
「兄者に見せたかったのに、どうして消えちゃうの……!」
 もっと長く架かっていてくれればいいと怒鳴りつけようとした時、後ろから襟首を引っ張って引き摺り戻された。
 ぐえっと首を詰まらせながらも振り返ると、椅子から立ち上がっている黒尽くめの兄が燕の福を引っ張ったまま嫌そうに見下ろしてくる。
「お前はここが何階か分かってるんですか? 落ちたらぺしゃんこですよ、お前なんか見る影もない挽肉ですよ。僕はそんなグロテスクなものを、見る気も片付ける気もないんです。落ちるなら僕の知らないところでひっそりと、僕が永久に知らないままに落ちなさい」
 これだから馬鹿な動物はと嫌そうに吐き捨てられるが、落ちないようにと助けてくれたのは分かる。思わずにこおと笑うと、気味が悪そうに部屋の中央へと投げ出される。
「兄者、兄者、僕ね、兄者が大好き!」
「気持ちの悪い……。僕は馬鹿な動物が大っ嫌いですよ」
「でも僕は兄者が好き! ねぇ、空の橋、綺麗だねっ」
「虹だ、と言ったはずです。そんな馬鹿な子供みたいな表現、やめなさい」
「うん。虹。綺麗だね」
「さあ、何が綺麗なんだか僕にはさっぱり分かりませんね」
 馬鹿な事で僕の体力と気力を使わせないでくださいと椅子に座り直した兄は、片手に持ったままだった本を改めて広げている。大事な読書を中断してまで燕を助けてくれたのは、彼にとって何よりも得難い幸せだった。
「兄者、大好き!」
「燕。煩いです。出て行きなさい」
「虹が消えるまで。もうちょっとだけお側にいてもいいでしょう?」
「……気持ち悪い」
 僕は大嫌いですと本に目を落としたまま素気無く答える兄は、それでももう一度出て行けとは言わないから。初めて見る虹よりも兄の読んでいる本を下から見上げて、何が書いてあるのかなと字を辿るほうに熱中した。

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